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彼女の福音

肆拾玖 ― Mind If I Cry? ―

 足の感覚がなくなっていた。

 いや、正確に言うと全ての感覚がもう失われていた。

 園児達を見送って、仕事を終えたのは、いつだっただろうか。

 気づけば、すっかり遅くなっていた。

 本当は明日も仕事があるから、帰らなきゃいけない。でも、もうあそこには帰りたくない。そんな思いが頭の中を巡り、結局こうしてあたしはあてもなく歩いている。

 不意に、肩を叩かれた。

「杏、どうしたんだ?ずぶ濡れだぞ?」

 知り合いの、声。あたしはゆっくりと振り返った。そう。雨、降ってたの。

「大丈夫か?何があったんだ?とにかく傘の中に入れ、風邪をひいてしまうぞ?」

 ほっといてほしかった。今は誰とも会いたくなかった。このまま消えたかった。

 でも、その優しさを無視することはできなかった。こんなあたしでも、心配してくれたのが嬉しかった。喉から何かがこみあげてきて、でも声は出てこなくて、もう止まらなくなって、あたしは

「よしよし。もう、大丈夫だからな。私が傍にいるからな」

 結局智代に泣きついてしまった。

 

 

 

 

「杏が風邪をひいたら、園児達が寂しがるぞ?服は洗っておくから、まずは風呂に入ってくれ。あと、着替えは今のところ私のでいいだろうか」

「……ごめん」

「すまないと思っているんだったら、もう少し自分の体を労わってくれ。杏は私の大事な友達なんだから」

 そう言いながら智代は微笑んだ。うまく笑い返そうとしたけど、うまくいかなかったかもしれない。顔が強張っていたのは、冷たい雨の中をずっと歩いていたからなのだろうか。それとも、表情を自由に出してもいいことになったら、全部壊れてしまう気がしたからなのだろうか。

 熱いシャワーが顔に当たる。さっきまであたしに降り注いでいた雨との温度の差が、そのままあたしの世界と智代の善意の温度差と重なって、こちこちに固まっていた何かをほぐしていった。溶かされほぐされたところから傷口が覗き、そこから感情が迸る。あたしはしばらく奥歯をぐっと噛み締めて耐えていたが、堪え切れなかった。

「……痛いよ陽平……ねえ・……陽平……」

 呼んでも、支えてくれる人はもう傍にはいなかった。浴室の中であたしの声だけがか細く響いた。

 

 

 

 

「何があったか、聞いてもいいだろうか」

 コーヒーをあたしの前に置きながら、おずおずと智代が言った。

「その、何だ、別に無理をしなくていいからな?でも話して楽になるんなら、何でも聞いてやる」

「……うん、ありがと」

 智代の優しさが、ただただ嬉しかった。話せば話すほどあたしの傷は痛んでくるけど、智代の善意に応える方法は、話すことくらいしか思いつかなかった。

 しかしどこから話せばいいのだろうか。あたしのところに陽平が遊びに来たところから?その陽平と一晩を共にしたところから?それとも結婚を申し込んだところから?ああ、それともやっぱり

「フラレちゃったみたいなのよね」

 結局始めたのはそこだった。智代の目が大きく見開かれた。

「結婚しよ?って言ってみたの。絶対に頷いてもらえると思ったから」

 あの時、世界は輝いて見えた。大丈夫、絶対うまくいく。そう信じてた。

 でも陽平はあたしを直視せずに言った。

「ごめん、杏」

 世界から、色が消えた。音も、温もりも、全て掻き消えてしまった。

「ねえ……どうして?」

 固まった頭の中で、その言葉の意味を反芻しながら、あたしは搾り出した。笑おうともしてみたけど、うまくいかなかった。

「僕じゃ、ダメなんだ」

「……早すぎたかな……そうよね、早すぎたかもしれない。急よね、やっぱり。でもね、でも、今すぐじゃなくていいの。今がまずいならさ……」

 陽平の言葉を塗りつぶすように言葉を重ねる。しかしそれでも

「ごめん」

 あたしを遮って、陽平が謝った。

「僕じゃ、君を幸せになんか、できない」

 そう言うと、陽平は立ち上がって服を着始めた。

「ちょっと……ねえ、何を、言ってるの」

 何もかもわからなかった。幸せにできないって、どういうこと?あたし、今までも結構、ううん、すごく幸せだったわよ?

「杏は」

 あたしに背を向けたまま、陽平が声を荒げた。

「僕となんかいるべきじゃないんだ。僕なんかが守ってやれるほどちっぽけな存在じゃないし、僕なんかが輝かせてやれるようなくすんだ奴じゃないから……」

「そんな……それは」

「だから、お別れだ」

 そう言って、陽平は出て行ってしまった。あたしは、しばらくの間ものすごい勢いで閉められた扉をぼうっと見ていた。

 

 

 

 

「そうだったのか……」

 智代は目を伏せてため息を吐いた。

「嫌われちゃったのかな。どこで間違えちゃったんだろ」

 努めて明るい声を出そうとしてみたが、無理だった。

「どうしたらいいんだろ、あたし」

「杏……?」

「何だかこればかりは応えたわ。勝負に出て、それで負けたことってなかったからね」

 そう。

 朋也とは不戦敗だった。あたしは自分の気持ちを表に出さず、そしていつの間にか負けていた。でも、それはあたしが勝負に出なかったから。出てたら、どうだったんだろう。

 でも今度は別。あたしはあいつのことが好きで、それを隠さずにずっと伝え続けて、それで陽平もそれに応えてくれて、それでうまくいくって思ってて

「どうしてよ……ねえ……」

 また震えが治まらなくなってきた。智代に聞いても答えの返ってこない質問を口にする。

 どうして、出てっちゃったの?

 どうして、謝ったりするの?

 どうして、解ってくれないの?

 どうして出てっちゃったの?あたしといるの、もう嫌なの?

 どうして謝ったりなんかするの?あたし、そんなの聞きたくないよ。ねえ、いつもみたいに笑ってよ。馬鹿なこと言ってさ、冗談の一つでも飛ばしてさ。あたし、笑ってる陽平、好きよ。

 どうして解ってくれないの?何で僕じゃ幸せにできないなんて言うのよ?守ってやれない?守ってくれたじゃない。あたしの自分勝手な騒動に首突っ込んで、ぼろぼろになってまで守ってくれたじゃない。あたし、輝いて見えた?誰のおかげでそう見えると思ってるの?あたし一人でここまで来たとか思ってる?

 ねぇ、陽平。

 不意に抱きしめられた。

「頑張ったんだな……」

「……うん」

 智代の腕の中で、あたしは子供のように頷くしかなかった。

「辛かったな。よく我慢したな」

「……うん」

「私も、そういう経験はあるからな。杏の感じる痛みは、多少なりとも理解しているつもりだ」

「……うん」

 しばらくの間、そのままでいた。昂ぶる感情が、穏やかになっていった。そして智代が静かにあたしに訊いた。

「なあ杏、今でも春原のこと、好きなんだな?」

「うん」

 これは変わらない。例え何らかの理由で陽平があたしのことを嫌いになっちゃったとしても、あたしの想いは変わっていない。変わらない。

「杏はあいつといて、幸せだったんだな」

 それは質問というより確認。傍からでもそう見えたことが嬉しかった。そう言ってもらえたことがありがたかった。

「うん……幸せだった」

 くすり、と智代は笑った。

「そうか……馬鹿だな、あいつも」

「そう……ほんとそうよね。馬鹿みたい」

「そうだな」

 二人で笑った。そして気づいた。最後に本当に笑ったの、いつだったっけ。園児達の前で微笑むのはカウントしないと思う。今日ばかりは、出来合いのインスタントしか作れずに、恐らくみんな少し不満だったんじゃないかな。ごめんね、先生しっかりしてなくて。

 窓の外を見る。雨は、まだまだ止みそうにない。これからずっと降り続けるようだ。

 ふる。ふりつづける

「智代、もしかすると、あたしこの街から出ていくかもしれない」

「え?」

 強張る智代の顔を見つめて、なるたけ自然な笑顔を作ろうとした。

「何だかここに残ってても、未練がましいだけだしね。ここにいると、ふとしたことであいつを思い出しちゃいそうだし」

 自分でも前からそう思っていたわけじゃなかった。でも、口にした途端にそれしかないと思うようになった。

「杏……本当に行ってしまうのか」

「あんたと朋也に会えなくなるのも、すごく寂しいけどね。落ち着いたら、また遊びに来るわよ」

「ああ……そうだな」

「まあ、今日明日ってわけにはいかないと思うけどね。まず引っ越し先とか決めて、ちゃんとした仕事見つかるまでどうしたらいいか決めて、それからになるけど」

 でもあんまり時間は置きたくなかった。いればいるほど、出るのが辛くなり、でも残るのも辛くなるから。

「智代、今までありがとね。智代も朋也も、あたしにとってはすごく大事な親友だからね」

「今までなんて言うな。それじゃあ本当に最後に聞こえてしまうじゃないか」

 不意に泣きそうな顔をした。そう言えば、何だかんだ言って智代ってあたしより一歳年下なのよね。

「そうよね、うん、ごめんね」

 ぎゅ、と抱きしめ返した。

「朋也には、智代から話してくれる?今朋也に会うと、やっぱ辛いしね」

 今会うと、どうしても三人で馬鹿やっていた頃のことを思い出してしまう。どうしても、あの馬鹿の笑顔が目に浮かんでしまう。

「わかった。全部話しておいて、いいのか?」

「そうしてくれるとありがたいわ」

 その時、玄関のドアが開いて

「ただいま……あれ、智代、お客さんか」

 最悪のタイミングで馬鹿が帰ってきてしまって

「……杏……何かあったのか」

 そして結局また泣いてしまった。

 

 

 

 

「ただいま」

 智代は玄関を閉めると、中にいるだろう朋也に声をかけた。あの後、智代は杏を家まで送り届けに行ったのだった。杏は無論断ったのだが、それでも心配だった。

「……?朋也?」

 返事がない。普通はいつもおかえりと言ってくれる声。それが帰ってこない。

 訝しげに居間に入ると、智代はただならない空気を察知した。

 朋也は着替えもせずにちゃぶ台の前で座っていた。そしてちゃぶ台に置かれている右手は、拳を握っていた。それだけだった。

 なのに

 それだけなのに、空気が痛い。

「朋也……」

「……ああ、ごめんな智代。帰ってたんだな」

「……」

 どうしたんだ、と聞くまでもなかった。杏の件に関してはまだ知らないはずだったが、それでも一目見て何か察したんだろう。そして智代はこの空気の正体がわかった。

 怒っていた。朋也は、本当に本気で怒っていた。

 それは今まであまりない経験だった。智代といる時の朋也は、正直怒ったことはなかった。父親との隔たりに関することでも不機嫌になったりすることはあった。でもそんなものよりも何倍も強い感情。それが朋也から迸っていた。

「なあ智代」

「……何だ」

「今、俺、自分のことが怖いんだ」

「怖い?」

「ああ。何かしてしまいそうで、すげえ怖い。だから教えてくれ、何があったのかを」

「ああ」

「お前も知ってると思うけど、杏はすげえ弱いんだよ。強固な壁を作って、いつもは何でも来い、みたいな顔してるけど、あいつ、やっぱり本当はそんなに強くないんだ」

「ああ、そうだな」

「でも敵とかになら絶対に負けないんだよ。何があっても勝つって感じでさ。だから」

「うん」

 朋也が声を荒げた。

「杏をあんなに泣かせられるのは、俺たちみたいなあいつの友達しかいないんだよっ」

 そう。

 朋也は怒っていた。

 自分の親友が傷ついて泣いているということに。

 自分の親友を傷つけたのが、他ならぬ自分の親友であるということに。

「だから、お願いだ智代。何が、あったんだ」

 歯を食いしばって、朋也は項垂れた。智代は黙ってその隣に座ると、握られた拳を両手で包みこんだ。

 

 

 

 

「これは普通なら本人たちの問題だよな……」

 朋也は苦々しげに言った。

「そう、だな」

「ここで他人の色恋沙汰に割り込むのは、どうかとは思うんだが……」

 朋也は智代を見た。その視線は「お前はどうしたい?」と聞いていた。

「私は、嫌だ」

「嫌か」

「ああ。だって、二人はまだ好き合っていて、それで二人で幸せになれないなんて、そんなの嫌じゃないか」

「……そうだな」

 前にも、ずっと前にも、そんな二人がいた。

「朋也」

「ああ」

 決意を滲ませた視線で、智代が朋也を見た。

「何とかしよう。私はこの道筋がここで途切れるのは認めたくない」

 しばらく見つめあっていると、朋也が苦笑した。

「本当に、どっちが先輩だかなぁ……」

「朋也……」

「荒療治になるな。まあ、しょうがねえか」

 そう言うと、朋也は立ち上がって今更ながら着替え始めた。

「朋也は、どうしたいんだ」

 智代の質問が答えられるのに、数秒かかった。

「やっぱり悩んでた。俺らが結局押しつけても、うまくいきっこないんだ。あいつら自身で一緒になりたいって思わないとすぐ壊れちまいそうでさ。だからもう手出しできないところまで行っちまったのか、って悩んでたけど」

「けど」

「お前の言葉に説得された。やっぱ仲間だろ、俺たち?だったら、できることはやってやりたいと思う。それに」

「それに?」

 すると朋也は振り返って、いつもの笑みを見せた。

「愛する妻の頼みなら、聞くのが当然だろ、智代?」

 それに答える智代も、花咲くような笑みだった。

「ああ、そうだなっ」

 

 雨は、明日で終わらせる。

 

 

 

 

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